ベンクト ニィリエ(Bengt Nirje)さんのこと

ベンクト ニィリエ(Bengt Nirje)さんのこと
友子 ハンソン

ノーマライゼーションの原理の実践者といわれたベンクト ニィリエ(Bengt Nirje)さんが4月8日に81歳でお亡くなりになりました。
「どんな人でも地域社会でノーマルに生活する権利がある。そのために、社会がそういうことが可能な状況を作り出さなければならない」と、特に知的障害者福祉や障害者スポーツの分野に力を尽くされた。

心臓のバイパス手術を何回も経験していたベンクトさんは、いつも“僕はサイボーグだよ。”などと冗談めかしてお話しになっておいででしたが、持病の糖尿病もあり、山のような薬を飲まなければなりませんでした。“僕が元気でいられるのは、このウプララ大学付属病院の医療チームと世界中の子供達がいるからだよ。“と、常々お話しになるほど、ウプサラという町を愛し、ウプサラ大学の医療を信頼していました。 

世界中で自分の信じる正義のために常に戦ってきたベンクトさんが、2年にもわたる壮絶な戦いの後に降参した相手は、すい臓にはじまり胆管をも犯していった癌でした。がんは本当に恐ろしい病気ですが、ある意味では一人の人間に自分の死を自分らしく迎える準備をさせてくれる病気でもあるのです。ベンクトさんは最後まで頭がはっきりしていたので、自分で自分のお葬式を演出し、大好きだったモーツアルト、ビバルデイそしてバッハの音楽と愛する詩の朗読だけというセレモニーを選択することが出来たのです。 ウプサラのホスピスで、自身の人生を振り返り、仲良しだった妹さんにみとられ、静かに尊厳に満ちて死を受け入れることが出来たそうです。

ベンクトさんは、つねづね自分の死後は臓器を提供し、必要な人達のために役立って欲しいと願っていたそうですが、最後には手続きのあまりの複雑さに嫌気がさしてしまい、山のような書類に記入を要請する官僚主義というものに腹をたてて、“死んだら、火葬にするだけでいい!”と決めてしまったそうです。人生というレースも常に駆け足で走り抜けることを選んだ短気なベンクトさんらしいと思いませんか?

ベンクトさんが亡くなった4月8日は、丁度私が成田空港に到着した日でしたが、私がベンクトさんとお知り合いになるきっかけも日本があったからです。

私は、日本の明治学院大学から名誉教授に迎えられ、また幾つかの講演をするために日本にお出かけになるベンクトさんと妹のブリッタさんに、1998年の初夏にストックホルムに住む娘のアパートで始めてお会いしました。 日本での講演会は、ベンクトさん、ブリッタさん、そして私の3人が旅先のホテルでシャンペンを開けての乾杯で始まったのです。“シャンペン ボトルを開けるのは僕のお得意だよ!”とうれしそうだったベンクトさんの顔が忘れられません。

また、ベンクトさんの74歳のお誕生日はこれもベンクトさんの愛するドライマテイニイで乾杯して京都のホテルで迎えました。 日本国内を移動するたびに、ドライマテイニイにはうるさいベンクトさんの指示に従って、私とブリッタさんは、レモンを調達し、氷を届けさせて、 不思議がる職員にシェーカーがわりのヤカンを探し出させて、、、、あれは、一体どこのホテルだったのでしょう?

「どんな人でもノーマルな社会で可能なかぎりノーマルに生活する権利がある。そのために、社会がそういうことが可能な状況を作り出さなければならない。」と、特に知的障害者福祉や障害者スポーツの分野に力を尽くされたベンクトさんの信念にふれることが出来たおかげで、私も人生を以前とは違った角度からみることが出来るようになったと思っています。そういう機会を与えてくれたベンクトさんとの出会いと別れを記念して東京では知人達とドライマテイニイを味わいながらベンクトさんとしのびました。

ベンクトさんのお電話には、電話をした人の番号が記録されていたので、電話をしておくと、しばらくたってから、“Tomo、、、電話をくれただろう?”などと突然ベンクトさんから電話がきたものです。“やっと病院から逃げ出してきたんだよ。”とか“まいった、まいったナーシングオームの食事はまずくて、あんなの食べてると死んでしまうよ。”とか、いつものわがまま一杯のベンクトさんの声が聞こえるかと思って、つい最近も、お電話をしましたが、電話はなっていても誰もとってくれないので、きっとまた病院だろうと思っていましたが、ベンクトさんは癌との戦いの真っ最中だったのです。

ベンクトさんのお葬式は、5月19日に世界遺産に指定されている、ストックホルムの森の墓地(skogskyrkgard)でひっそりと行われました。ベンクトさんの希望で、出席者は、家族とごく親しい友人達だけでしたが、特別に障害者スポーツ関係者と出席を希望した2名だけを招待したそうです。その一人は、愛弟子でベンクトさんの腹心の友、ウプサラ大学のモーテイン スーデル教授。もう一人は、なんと長い間、ベンクトさんとは相反する立場にあった宿命のライバル カール グルネヴァルドさんだそうです。お別れのスピーチを述べたいと希望していたというグルネヴァルドさんも、当日はスピーチも辞退し、式の間中ずっと黙って感慨深そうにしていたそうです。知的障害者のために異なった立場からではあっても、長い間、戦ってきた2人は、ある意味では戦友だったのではないでしょうか? グルネヴァルドさんは、どんな気持ちでベンクトさんにお別れをしていたのでしょう?

妹のブリッタさんによると、ベンクトさんは“子供がいなかったのは残念だけど、世界中に子供達がいるようなものだから。自分の人生には満足している。”と、最後にお話しになっていたそうです。自分の人生に満足して静かに死を迎えるということは誰にでも出来ることではありません。平和な気持ちで死をむかえることができて、ベンクトさん本当に良かったですね。

ベンクトさんの大好きだった、ヘミングウェイは、“もし若いときにパリに住む幸運に巡り会えば、後の人生をどこで過ごそうとも、パリは君とともにある。なぜならパリは移動する祝祭だから。”と語っています。ベンクトさんはパリも大好きで、女性の友人の車椅子を押してヘミングウエイの愛したパリ中を歩き回ったことがあるそうです。“パリは青春だ!”と時々お話しでした。しかし、ベンクトさんの本当の“移動祝祭日はトロント”だったのです。カナダ時代が自分の一生のうちで一番幸せだったというベンクトさんのために、新聞に掲載されたベンクトさんの死亡通知は、カナダのシンボルの楓が飾っていました。

天国のベンクトさん、バンク ミッケルセンさんや同じくウプサラを愛したダーグ ハッマーショルド元国連総長とも再会できましたか? バンク ミッケルセンさんとは、昔のようにノーマライゼーションの原理について討論しておいでですか? 

5月19日のお葬式には、私は日本の子供達を代表するつもりで

さらば、人間という子供よ
夢をみつづけ
生きるとは何かを
最もよく理解していた詩人よ

というスウェーデンの文豪ストリンドバリの詩をそえて、花束を送らせていただきました。

さようなら、ベンクトさん!

“ニューヨークのレインボーホールのドライマテイニイにまさるものなし!”と、いつも話しておいででしたね。この次にお会いする時までには何とかレインボーホールに行っておこうと思っています。

2006年6月1日  友子 ハンソン

WUFI動画

WUFI販売

WUFI情報目次

セミナー情報

コンサルティング

「一枚の写真」

海外視察

FhG/IBP提携

本のご紹介

海外情報

スタッフ便り

リンク

お知らせとバックナンバー

プライバシーポリシー
特定商取引法に基づく表示
|メニュー終わり
ページの先頭へ|